「相手を変えたいと思ったら、まず自分から変わること」。
他者にとられた態度や言動に不満を抱き彼らを批判していた友人に、私はこう伝えたことがあります。
その後、久しぶりに会った相手は確かに変わっていました。
けれども、私が伝えた「変わる」とはずいぶん異なる変わり方でした。
人からばかにされたり、心無い態度をとられて悔しい思いをすることは誰でも嫌なことだと思います。
けれども、そのされたことに囚われ、いつまでも相手に恨みつらみを抱き、非難してばかりいても意味がありません。
”自分自身がそうした周囲の態度や言葉に振り回されない軸をつくり、意識を自分の中心に向けるために自身を成長させること” という意味で伝えたつもりでした。
長い時間を経て再会したその相手は、その間おそらく自分を変えるためにさまざまなことをやられたのだと思います。
以前より、声や姿勢、態度、言葉といったものがいくぶん堂々としてるように私の目には映りました。
けれども、久しぶりに対面した私にとった態度は、不必要に力が入った、まるで他者からばかにされぬよう自ら先に相手を威嚇し優位に立とうとするようなものでした。
まるで、「ばかにされてたまるか!」と、どこかから声がしてくるような空威張りです。
残念でしたが、「あぁ、変わるも反対方向へ行っちゃったな・・」と私はその人とにこやかに握手をしてそっと離れました。
ある程度の年齢になってくると、それまでの生き方や思考、または行動パターンを変えることは難しいとおっしゃる方もいます。
私は、自分が変わろうと思えば、今この瞬間からでも意識と行動によって変わることはできると常々思っています。
ただし、ここでいう変わるとは外側の変化、つまり ”どう見せるか” ではなく、内側の部分の ”どうあるか” です。
知識や外見など何かを新たに足していくことで変わることが促されることもあるのかもしれません。
でも、大事なのはそこじゃない。
どれだけ新しい知識やものごとを取り入れ身に着けたところで、大本の心の在り方が変わっていないのであればそれはハリボテです。
嫌な目にあったからこそ、そんなときの自分自身ととことん向き合い、時にその心の闇や湧き上がる感情をとことん味わい尽くす。
そこから、そうしたつまらない人々を越える人間になるために自分の内面に既に備え持つ素晴らしい資質のうち、どの要素を磨くのかを考えるわけです。
おそらく、内面に変化が生じると、人はもっともっと寛容的で柔らかく大きな心の器をもつようになります。
目の前の相手がどのような言動をとろうと、そこに振り回されることのないおおらかさ、そして柔らかさ。
虚飾となるようなとってつけた見せかけの要素より、内面から鍛え、磨き育てた要素は意識せずとも内からあふれだし、それだけで周囲に良い影響を与え、自然と変えていくことでしょう。
変わるということは、やはり成長し相手や周囲を包み込むような柔らかさを増すということなのだと思います。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ