くれたけの今回のお題はかなり妄想モードに入っても良さそうだったのでめくるめく妄想をしばらくしてみました。
ご一緒できるのはどんな人でもOKって言われたら、もう、ウハウハしてしまいますよね。
けれども、結局さんざん妄想をした挙句に戻るところ、私が選んだのは母でした。
20年以上も病を患っていた母とは、その時期が私にとっては人生で最も体力・気力が充実していた時代と重なり波長がまるで違うとあって、一緒に食事をする機会がほとんどありませんでした。
私も社会人になり仕事が猛烈に忙しく、また楽しくて仕方ない時期だったこともあるでしょう。
でもそれ以上に、性格が陰陽まるで逆のような母と距離をあえて空けることで心身のバランスをとっていたこともあります。
普通の親子さんでしたら、年齢的にどちらの世代もいろいろが安定して充実しており母娘で話したいことがたくさんある時分です。
けれども、一緒に食事に出かけることはもちろん、ちょっとしたお茶をする時間、また一緒に気晴らしに出掛けてゆっくり語らうことさえ社会人になってからはほとんどしたことがありませんでした。
さまざまな要素が重なって、巡り巡って私は今、母のすぐ傍にいるわけですがようやく今になってこの一緒にいる時間が愛おしくかけがえのないものだと思えるようになってきました。
紆余曲折、いろいろな苦しい課題を乗り越えて、ようやく元の母と同じかどうかまでは今となってはもはやわかりませんが、病をほぼ完治させ本来の素である母を目の前にすることができています。
けれどもあまりにも長く人生の良き時代を病に奪われた後遺症は大きく、体つきはもちろん、身体の内も無理ができない体になってしまっています。
心が治った時分には、今度はもう体の自由があまり効かず体力もついていかない年代に・・。
皮肉ではありますが、それでもこうして元気に日々を暮らし笑う姿を目にできることがウソのようです。
あとどのくらいこうして一緒に過ごせ、外食をしたりお茶を共にいただくことができるのかと思うとものすごく寂しい気がします。
けれども、済んだ過去でもなく、まだ見ぬ未来でもなく、「今、この瞬間」に一緒にいられることに感謝し大切にしていきたいと思っています。
銀製のナイフやフォークは、もう彼女のあまり効かない手には重すぎるかもしれません。
私たちが子供の頃、さんざん厳しく直されたお箸ですら、今の母はしびれてしまいうまく扱うことができません。
スープをいただこうにも、骨粗しょう症で身長が縮みすぎた母にはテーブルが高くうまく掬うことができません。
お肉は嚙み切るのにやっとこでしょう。
ボリュームのあるコースはどんなに食材が新鮮な高級料理店のものであっても、もはやすべてを平らげることは難しいと思います。
ワインやシャンパンだけは喜んで飲みそうですが、あとが大変です。
せいぜい野菜ジュースにしておきましょうか。
2人それぞれお料理を頼んでも、そのほとんどは私のお腹に入ります。
それでも、私が選びたい放題の世界中から記念日のディナーの相手に選ぶのは誰をさておき、母なのです。
大してうまい感想を言われなくても、話がまったく弾まなくても、テーブルマナー違反や楚々をされたり、時につまらないことで口ケンカしても・・。
それでもこうして一緒に食事を摂れることが何よりうれしいので母で良いのです。
いつか近いうちにあるであろう私のエッセイ集の出版記念には、ぜひ母と二人、いつになくとびきりのおしゃれをして母がテーブルでコックリコックリし始めるまでまでゆっくりディナーを共にしたいと思います。
でも本当は、雰囲気の良い素敵なレストランでなくても、とびきりお高い食事でなくてもいいんです。
たとえカウンター席の焼き鳥屋さんでも、母が「おいしい、おいしい」と言って笑顔で一緒に私の大事な日を祝ってくれるのであればどこでも良いです。
それだけでかつて失った長い空白の時間すべてが戻ってくるくらい、そして一生忘れることができないくらい、きっと私は幸せだと思います。
「世界中のどんな人でもOKだとしたら、その記念のディナーを誰と一緒に食べたいですか?」
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