つい先日、突然母が言い出して
業者を呼んで
切り倒すことになった
我が家の裏庭の栗の木。
これまで、我が家の栗の話題は
私のブログでも
何度となく
登場しているかもしれません。
栗ネタ関連ブログの一部
『視線は一歩先へ』
『秋の収穫を迎えて』
『食べごろとタイミング』
『手間暇をかける』
一番大きな実を良く付ける木は
父が生まれ育った時分からある
古木だと思っていました。
実は、母が父と結婚した際に
父の両親、私の父方祖父母が
植えた栗の木だったようです。
毎年、秋口になると
見事なまでの栗がぽとぽと
音をたてて地面に落ちてくる
いや、降ってくるような
大豊作の良木でした。
老いも重なり都市での生活に
戻りたいのか・・。
私がいつまでも田舎暮らしに
浸っていないのだろうなと
どこか一人で思いを巡らせたのか。
母の心境はわかりませんが
落ちる栗の実はもちろん
イガ栗、落ち葉など
ご近所さんに迷惑がかからないよう
お掃除するのが大変だというのが
建前の理由だそうです。
あんなに栗を拾うのを
楽しそうにしていたのにな
渋皮煮をつくったり
様々な用途に調理することを
楽しそうにしていたのにな
と秋口恒例の我が家3人の
栗剥き作業を思い浮かべましたが
齢を重ねた自分の身体が
心は完全に回復したものの
肉体的に追いつかず
じれったいところも
あるのだろうと納得しました。
業者さんが何人かやってきて
半日ほどで大きな栗の木は
あっという間に
切り株とたくさんの枝に
姿を変えてしまいました。
裏庭から北アルプスを眺めるのには
この栗の枝越しに目に納めるのが
常だったので
どことなく新鮮な風景です。
空間が広くなった
そのスペースを眺め
それまで当たり前に
馴染んていたものを
手放していくときの
一抹の寂しさと
新たなスペースにどんな風景が
見えるのかを
疑似体験したような一日でした。
あれからもう10日ほど経つと
違和感を覚えた空間は
もう日常の中にしっかりと
馴染み始めています。
脇に積まれた切り落とした枝と
切り株を眺めれば
少し寂しさもわくのですが
住む人の人生と重なるように
眺める風景が随時変わるのも常と
割り切れるようになっています。
昨日突然に長年親しくする
ある大きな企業の社長より
超絶お久しぶりの連絡を頂きました。
お互いに、抱える世の中や人々の
よりよい未来について
抱える想いや志が共通するとあって
これから何かおもしろいことが
始まりそうで
ワクワクしています。
私自身がこれからの自分の
さらなる変革と進化を
考え始めていたその矢先に
日常の馴染んだ風景が
一足先にその姿を変えて
勇気づけてくれたような気がします。
緩やかな変化にはなるのでしょうが
”心地よい” と
感じていた私の日常に
再び何かしらの変革が
起きようといているようです。
母がそれを本能的に
先に察知していたのかどうかは
知る由もありません。
家族で一緒におしゃべりしながら
長野の家で栗剥きをした日々が
懐かしくなるのかもしれません。
あのやさしく温かな時間は
私の内部に染みこんでいるので
どこにいても
何をしていても
生涯、心に刻まれているものには
違いないのでしょうけれど・・。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ
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