相手とのささやかなやり取りをしっかりと思い出し、その瞬間に自分自身が心で感じとったことを辿る作業が入るこのコーナーは、なかなか動きが激しい日々のなかでは難しいとあって、ずいぶんとお久しぶりです。
今日の登場人物はこれまたずいぶん昔の方です。
90年初頭、インドにナラシンハ・ラーオ(日本ではナラシマ・ラオが一般的)という大統領がいらっしゃいました。
その大統領の甥っ子にあたるというアレサンドラ・ラオという人物と出会ったのはまだ私が大学生の頃です。
都内は芝にあるABC会館という建物に、アメリカンセンター資料室という機関が入っていました。
学生時代にやっていた英語劇では、スクリプトといういわば台本を探すことから始まります。
今はネットで世界中の図書館や公的機関の蔵書にアクセスして手に入れることもできるのでしょうが、当時は地道に図書館で探すのが王道でした。
私が学生だった90年代には、アメリカンセンターほか、早稲田の演博こと演劇博物館はもちろん、飯田橋にあるブリティッシュ・カウンシルなどが都内で地道に英語の台本を探す際に活躍する主だった図書館・資料室でした。
たまにやり手の大学によっては、はるばる海外まで飛んだ先の高校や大学の図書館などで探してくる学校もあったでしょうか。
そんなアメリカンセンターで英語の台本を探していたある日のこと。
資料室のイスに腰をかけている初老のインド人と出会いました。
それぞれ異なる大学の演劇仲間と数人で探していたのですが、そのインド人と挨拶を交わし仲良くなったのはなぜか私だけでした。
これが欧米の方でしたら、こぞって仲良くなりたくて話しかけるであろう英語の達者な若者たち。
けれども、脇を通る際に相手から会釈をされても肌の色が違う男性には目もくれず、ひたすら台本探しに没頭しています。
私は少し台本を読み漁ることに疲れて休憩が欲しかったので、品の良いその男性と会話をしていました。
名刺をいただき、まだ子供のような学生相手に丁寧な言動をとってくださる相手からは生まれ持っての品性をも感じました。
アレサンドラは不思議な人でした。
生い立ちを聞けばびっくりするような方ですが、気さくで、またどこかつかみどころのない風来坊的な雰囲気も感じさせます。
皆さん、インドにはカースト制があり生まれたときから一生の在り方が決まってしまっていることはご存じだと思います。
高貴な生まれ育ち、また非常に高い学問を授かってきている人でしたのに、出てくる話題は貧困で飢えに苦しむ国民、とりわけ子供たちの話ばかりでした。
どこか、煩悩から解き放たれた高僧のような雰囲気もあり私は安心して交流することができました。
彼を慕う私を心配する私の仲間たちの不安をよそに、非常に紳士的で、哲学的なアレサンドラは私の心強い相談相手でもありました。
私はアレサンドラの口から出てくるインド国内の現状に関心があったので様々な話が聞きたくて、一緒にお茶や食事をしたり、調べものをするために図書館へ出かけるアレサンドラの脇で勉強していたものです。
今思えば、何もかもが不思議な時期でした。
皆さんのなかにも、きっと覚えていらっしゃる方はいるでしょう。
ある時期のインドでは、サイババ(サティヤ・サーイー・バーバー)という聖者とも言われたスピリチュアル系の霊的指導者が現れインド国内のみならず世界の耳目を集めていました。
私はそうした方面は詳しくないのですが、サイババと名の付く学校や病院、空港がインド国内の彼の活動拠点を中心に造られ、サイババ亡き今も、そうした施設は残っているようです。
私の友人や知り合いも好奇心からインドまでサイババツアーなるものに出かけている人がかなりいました。
まさに一世を風靡した、あのサイババです。
私はそのサイババ空港を建てた建築家とも都内でお逢いしていろいろお話を伺っているわけですが、やはり、思い出せば思い出すほどに何もかもが不思議な時期でした。
出会った当初から、私が新聞記者を目指していることを知ったアレサンドラは世の中はどういうものなのかを、私に海外のセレブを含めた様々な人々と出会わせては教えてくれていたような気がします。
アレサンドラの懸案は常にインド国内に住まう貧しい子供たちでした。
交流があったのはわずか3年半あまりだったでしょうか。
ナラシンハ・ラオ大統領の退任と重なるようにアレサンドラもいつのまにか日本から姿を消してしまいました。
そんな彼から私が学んだ一番のこと。
それは常に問われた「あなたはインドの貧しい掃きだめのような街や農村地帯で汚水や汚泥にまみれている小さな子供を抱き上げキスすることができますか?」です。
そして厳しい表情のまま「頭で考えるのではなく、実際にできるかどうかを聞いています」と続きます。
ジャーナリストを目指すに限らず、私の本質の在り方を問われているような言葉でした。
要するに、上からでもなく、下からでもなく、対象となるものごとや人物を真正面から見据えその本質を見抜くことができるかどうかを問われていたのだと思います。
高みから何もかもわかったようなふりをして物を言うのではなく、また向き合う人やものごとに対しいやらしい程にその権力や地位に媚びるよう下から崇めるのでもなく、ただ相手と同じ目線に立って中庸の心でものごとを見つめることの大切さを問われている気がしました。
彼は、目の前にいる苦しい思いをしている相手と同じ目に遭ってみなさいとは決して言っていません。
相手の境遇や苦しさを理解するためには、そこの目線と常に同じところにあってものごとを考える癖をつけるようにと諭されていたのだと思います。
その後、ジャーナリズムの世界に限らず、こうして人の心に寄り添うカウンセラーの仕事をしていても、やはりアレサンドラの問いは常に私の胸にあります。
出会いの中で、彼が娘のような年齢だった私に残してくれた最大のプレゼントでした。
「私は茶色人」と口癖のように言っていたアレサンドラ。
幼い頃から高等教育を受けるためにイギリスやアメリカへ渡り、高貴な出自とは関係なく肌の色やインド訛りの英語を理由に受けてきたであろう差別の数々を思わせる言葉でした。
”傷がある私は、その傷から他者の優しさを感じることができる”(大略)とは星野富弘さんの言葉だったでしょうか。
私は「傷がありその傷みを知るからこそ、他者にも優しくなれる」とも付け加えたいです。
無数の人々や様々な体験を糧として心の内をぐんぐん成長させる時期にアレサンドラと出会え、短くも交流を持てたことは私にとって大きな誇りだと今でも思っています。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
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