「赤信号と蝶」
今日はすいぶん昔になりますが、こんなタイトルで当時、雑誌にエッセイを書かせて頂いたあるタクシーの運転手さんのお話をしたいと思います。
まだ私が会社勤めをしていたころのある朝に出会った日常の一コマでした。今頃、あの運転手さんはどうなさっているのでしょうか。
早朝に自宅から大通りに出て慌てて乗り込んだタクシー。年配の運転手さんに行き先を告げようと身を乗り出したときのことです。
ダッシュボードに束となって飾られた色とりどりの和紙製の蝶が目に飛び込んできました。
「奥さんがこしらえたものを飾ってらっしゃるのかしら。それにしてもロマンチックな趣味・・」。
精巧に折られた蝶には一つ一つに細い針金が巻き付けられており、まるで造花のようにそれぞれの色柄豊かな美しい羽根を揺らしています。タクシーの中でこうした光景を見たのは初めてでしたから、珍しいなと後部座席から見やっていたものです。
都心の赤信号。
次の瞬間、運転手さんが繊細な造りの竹べらをいきなり取り出し慣れた手つきで造りかけの蝶の羽を折り始めるではありませんか。
信号待ちのわずかな時間に紫色の小柄な蝶は胴体に華奢な針金を結ばれ、その身をゆらゆらと揺らしています。思わず「おじさんが造ってらしたの?」と訊ねてしまった私に、人の良さそうなその男性はとつとつと自分の話をし始めました。
老舗の日本料理屋で板前をされてらしたところ、かざり包丁の使い過ぎで指を痛めてしまったのだそうです。よく見るとハンドルを握る際にも右手の人差し指をまっすぐ伸ばしたままでした。
曲がらなくなってしまった指をどうにか治してもう一度、料理の世界に戻りたい。その強い願いから思いついたのがこの蝶造りだったのです。指のリハビリにと、子供の折り紙をヒントにご自身で考えついた方法でした。
その蝶が京都の舞妓さんのかんざしに添えられ当時のテレホンカードにまで登場する人気ぶり。また、栃木のあるホテルのロビーにはフラワーアレンジメントさながらの色鮮やかな和紙の蝶たちが訪れたお客様たちを迎えているとのことでした。
ご本人も思いもしなかった各地の反応に戸惑いながらも、やはり在りし日の包丁で仕事をする自分に戻るべく少しでも指が動くように、とリハビリは欠かさないとおっしゃっていました。そうして、赤信号で止まるたびに少しづつ少しづつ蝶を折り続けるのでした。
「タクシーの運転手やるよりはずっと儲かりましたよ、料理人の方がね。でも儲けじゃないんですよね、本当は。料理が腹の芯から好きなんですよねえ・・」。
年代は当時で50代前半くらいでしたか、いえ、もっと上にも見えました。いずれにしても、ただ黙々と竹べらで和紙に折り込みを入れ色鮮やかな蝶を造りだしていく運転手の眼差しに込められた熱い思いを垣間見たようでじわっと何か温かいものが私の体を流れるのを感じたものでした。
″飛んでけ飛んでけ紙の蝶。私の夢を乗せてどこまでも・・。″ そんな声がダッシュボードでゆらゆら揺れる蝶たちから聞えてきそうでした。
あの後も、毎日のように街のどこかで乗せたお客さんを背に、赤信号のたびに願いを込めて折ってらしたに違いありません。
あのとき、「一つ、お持ちください」と降りしなに手渡された可愛らしい紫色の蝶。今でも私の家のどこかに大切にしまってあるはずです。
人と人がまだ密に話ができた時分よりもっと前の時代、ある朝に出会った名も知らぬタクシーの運転手さん。
その後、願いは叶ったのかどうかは知る由もありませんが、いくつになっても夢をあきらめずに寸暇を惜しんで黙々とできることをやっていらっしゃる真摯な姿を目の当たりにした、胸がじんと温まるささやかだけれどとても素敵な思い出です。
投稿者プロフィール
-
今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ