自分の激しい怒りにのみ込まれ
本来その怒りが向かう先だったのか
もはやわからないほどに
目の前にいる人を傷つけたとき。
暴力や暴言、あるいは陰口など
形は様々なのかもしれませんが
自分が相手を傷つけたことに
気づけないこともあるのだと思います。
それはそれ以上に
ご自身の中に癒やされない傷があり
そちらの傷の疼きが大きいうちは
他者の傷みを想像することは
難しかったりもします。
起きた出来事について
他責し、自分事としては
捉えられないうちは
自分の心の核の部分に触れることすら
怖くて目を背けたい。
そんな思いもあるのだと思います。
だんだんと
深い内観を通して自分自身の心を
眺められるようになり
改めて、傷つける必要がなかった相手を
傷つけてしまったことに気づいたとき。
その方を襲う自責の念や後悔は
想像を絶するものなのだと思います。
けれども。他者の傷みを
真に自分の傷みとして
受け止めることができたとき
そこから本当の再生が始まって
いくのだと思っています。
今、覚える
その激しい傷みこそが
重い十字架ではありますが
私たち人間がさらにやさしく
強くなっていくために
時に、とても大切なものなのだ
ということ。
他者を傷つければ
同じように、いえ、それ以上に
自分自身が本当は
傷つくのだということ。
私たちは日々
事象の大小を問わず
傷ついたり、傷つけたりを
繰り返しては
その傷の傷みから
大切な気づきや学びを
得ているのかもしれません。
私も日々、皆さんと一緒に
そのことを胸に刻んでいます。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ
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