ケンカや騒動といった
何かが勃発してその渦中にいるときは
もちろんなのですが
心が千々乱れる思いをするのは
むしろ一旦、もめ事や騒動が
静まってから・・ということも
多いように感じています。
表面的には落ち着いた
それまでの日常が
取り戻されたような体になって
相手も自分自身を振り返り
自ら反省するところはして
それでも前を向いて再び歩もうと
努めていることはよくわかる。
でも、なんだろ、この気持ち。
相手が笑ったり、リラックスする
そんなこれまでだったら
むしろ幸せを覚えていたはずの
何気ないシーンの一コマが
無性に腹がたって仕方なかったり
自分だけが重い感情を
心や身体のどこかにひきずり残したまま
置き去りにされたような気持ちになって
苦しくて仕方ない。
思い出してはふと口にしてしまう
繰り返し放つ過去の出来事を
何度同じことを言うのかと指摘されるも
それでも言わなきゃいられない
苦しみを覚える自分がいる。
苦しい思いを本格的に抱えるのは
物事が一旦落ち着き
整理され日常に戻り始める時期からが
正念場なのかもしれません。
それまでは、なんとか日常を
滞りなくこなすこと
日々の課題に向き合うことに
精一杯で
起きた事象を知って理解したり
そこを検証したりして
浸りきることもできなかった。
いえ、むしろその時は
それでよかったのかもしれません。
それでも、煮えくり返るような
感情は心や身体のあちこちを
駆け巡りマグマのように
噴火口を探しているかのよう。
それが一見、平穏な日常に戻ったことで
ここぞとばかりに
何かしらのサインを伴い
表出し始めてくるのだと思います。
出てくるものに対しては
一旦、出し尽くし
そう、呆れるほど出し尽くし
底をつくのを待つことも
一つの、けれども本当の意味で
長い目でみた真の回復へ向かう
方法なのだと思います。
理屈で説き伏せ、言い聞かせ
わかったように理性で抑えても
置き去りにされた心は
何かしらの手段をとって
私たちに気づいてもらおうと
内側からノックをし続けます。
どのような感情や思い
時に自分でも経験したことのない
また内在するなんて意識したこともない
感情や言葉などが出てきて
驚くことがあったとしても
それらを一旦は自らが受け止め
「苦しかったよね」
「辛かったよね」
を言い続けて
差し上げることなのだと思います。
一人で抱えきれないときは
受け止めるために
この手を添えさせていただくので
いつでもここへ
いらしていただければと思うのです。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ
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