幼少の時分から、言葉は私にとって特別なものでした。
何かを心が感じると、すぐさまその瞬間に背中がゾクゾクっとすると同時におりてくるものがあって端から言葉に置き換わっていくのです。
考えて書いたことはほとんどないと思います。
あっと何かを感じたとたん、あとは自然に言葉がおりてくるのでそのまま無意識に筆(キーボード)をとると起承転結はもちろん、文章ができあがっているという感じです。
自分が経験していないことはもちろんですが、心から感じていないこと、考えていないことはいくら考えてもまったく書けません。
新聞をはじめマスコミにいたことを理由に言葉を使うことについて褒めていただくことが多いのですが、こればかりは幼少期からの天性のものなので職歴とはまるで関係ないと個人的には思っており「おいおい・・。違うんだよなぁ」と苛立ちを覚えながらいつも密かにつぶやいています。
人の言葉を読んだり聴いたりしていても、やはり、そこにその人となりが表れていることを如実に感じます。
その人自身が自分の感覚で気づいたこと(アイデアや発見)を書いているのか、心で感じたことを自分の言葉で綴っているのかどうかなどはすぐわかります。
他人様(書物や映像も含む)の良い表現や、言葉を拝借して書くことは今の時代、いくらでもできてしまうわけです。
たとえどんなにごまかしても、書いているご本人の本質の部分(表に見えている部分ではなく)や人生経験、あるいは発する気などと何かしら異なるズレ、あるいは微妙な違和感があるので、そうした部分ほどよくわかってしまいます。
コミュニケーションを教える生徒さんたちには日頃から「つたなくても、下手でも良いから、まずは自分の観点で、そして心と繋がっている自分の言葉を大切に表現しましょう。人の言葉は借りてこない!」と口が酸っぱくなるほど伝えています。
結局、人の心を打つのは形が整っていることでも、美しいことでもなく、その人が投影された本物でしかないということです。
大きく見せたり、良く見せようとしても、その発言の根拠のあるなしやリンクする人柄に無理な不自然さがあることを、わかる人には透けるように見抜かれてしまうというといったところでしょうか。
それほど、言葉というものは良くも悪くも、人そのものと心の在り方を表すのでしょう。
私はその人が自分の言葉で書いている文章や、発している発言というのがやはり好きです。
内容や表現が簡単か難しいか、あるいは、文や話が短いか長いかなどは一切関係なく、等身大のその人がそのまま、借り物なしで自らがあるいはその経験が投影されている言葉で書かれている、話されているかどうかということですね。
言葉はどんなに隠そうとしてもその人をあからさまにあるがままを表してしまうものですが、前述のとおり他者の表現や言葉を自分の経験や心の発火点とは関係なく拝借することで、もっともらしく体よく見せることができてしまう怖さもあります。
けれども、どうやってもごまかせないものもあります。
それは、言葉の余白にある素の思いが表れる沈黙であったり、所作であったり、表情であったり、発する ”気” だったり。
また、ふとした瞬間に見えてしまう身体のある部分の消耗具合だったり、はっとするような心の内奥から発される言葉ではないたった一声だったりします。
ものすごく凝縮したものがそこには表れており、深く大きなその人の秘めたる物語がそのささやかな部分には見え隠れしています。
言葉などではとうてい語れない大切なもの。
そうしたものに触れた瞬間に、すべてが一瞬で腑に落ちたように納得することもありますし、相手の真の姿をそこに垣間見たりするわけです。
私は言葉にこだわってきた性分ですが、実は、それ以上に最も大切にしているのはこの余白の部分を感じ取れることだったり、見つけられることだったりします。
気忙しくいたり、心に余裕がないときなどは、こうした繊細なものごとを見落としがちだったり、感じ取れなかったりするのでそこは私自身も常に成長することが必要でしょうし、日ごろから意識して心を開き余裕を持たせるようにしているところです。
目の前にいる人が無意識(無自覚)に発しているその人の本当の姿や思い。
どんなときでも、そうした言葉の余白を酌める心の柔らかさを大切にしたいと思っています。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
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