本日の午前中、これから出かけるというタイミングで訃報のお知らせが入りました。
コロナ禍で葬儀やお別れ会も都内に住まう直近の親族のみとなったので訃報というよりは既にお亡くなりになっていた連絡といったほうが良いかもしれません。
ちょうど親愛なるおばが1ヵ月前の2月5日に大往生で息をひきとったことを知らせるおばの娘さんからの連絡でした。
9日のお誕生日まであと数日でした。
私が幼少期からもちろん可愛がっていただきましたが、特に10~20代末までは一緒に生活をしていたので私の母が体調を崩した時期と重なることもあり母親代わりであり、ある時は姉であり大事な親友のような存在でもあったおばです。
おばとあえてひらがなにするのは、両親の姉妹ではないからですが、私にとっては昔から”おばさま” と呼ぶ大切な存在でした。
日本橋で生まれ育ち、また虎ノ門という都心にお嫁にいらしたおばにとって、バスや地下鉄を使うよりも日常的にどこへ行くにも歩くことがあたりまえの生活でしたから足腰は私以上に丈夫だったはずです。
虎ノ門から銀座まで地下鉄で行くというと「そのくらい歩きなさい」とよく叱られました。
それでも85歳近くになった頃は、さすがに以前のような速さはもちろんなくゆっくり一歩一歩、足元を確認しながらそろりそろり歩いている具合でした。
好奇心旺盛な孫のような年頃の私にあちらこちらの文化芸術イベントに誘われては一緒に歩いて出向く。
一日にあったことはもちろん、人間関係や悩み事などはなんでも話す。
学生時代はもちろん、社会の中でも何かしら学びの場があると必ずおばも誘って一緒に参加するという、まるで学生寮に一緒に住まう仲良しのお友達のようでもありました。
肉体的にも精神的にもまだまだ怖れを知らず、人生で一番輝きを放っている年頃の私と一緒にいることは彼女にとっても励みでしたでしょうし、心と物理的な距離が空いてしまっていた実の娘さんたちの代わりのような存在に私はなっていたのかもしれません。
私にとってもやはり、視野が広く話が通じやすいおばは、おとなしくて内向的な実の母親以上の存在となり常に見守られている安心感を生む心の支えになっていました。
そんな関係も私が一人暮らしを始め、携わる仕事もいっそうに忙しさを増してくると段々に距離が離れてしまい、たまに一緒に食事をしたり音楽会に誘ったりするような具合で顔を合わす頻度も減っていきました。
長野に来てからは帰京するのも他のいっぱいいっぱいの予定と共にこなす中とあって、突然戻って家を訪ねても留守が多く私の滞在予定によほど時間的余裕があるときにあらかじめ連絡をして予定が合えば一緒に食事をするといった感じでした。
しばらく会えないまま数年前の真夏に彼女が熱中症で倒れ、都下にある施設に入ってからはさらに会うことも叶わず。
ここ1年半ほどは電話で話すことが多くなっていた矢先に昨年来のコロナ禍です。
帰京も今日に至るまで控えるようになり、それでもと時折気にはしていましたが、これも時期が時期なのだから仕方ないと家族でも話しており事態が終息に向かってきたら久しぶりに私も、家族も顔を見に訪ねようと思っていたくらいです。
年齢を考えればいつ何があってもおかしくない状況ですが、なぜか身内や近しい人というのは限りある命なのにいつまでも自分の近くにいてくれるような錯覚に陥りやすいから不思議なものですね。
両親と時々はどうしているかしらと気にしながらも、完全に気を抜いていました。
娘さんと久しぶりに長く電話でお話しし、私が会えなくなった時分からのお話を詳しく聞きました。
生前の電話でも少し気づいていましたが、母の名前はすっと出てくるのに私の名前は憶えておらず、母には「あの方はお元気」と他人事のような口ぶりでしたから認知症もいくぶん進んでいたのでしょう。
それでも、そのままにしてある部屋を片付けに戻ると娘さんいわくひどい騒ぎのなか、よく見ていたであろう写真が何枚かベッド脇にあったそうです。
その中の一枚があまりにもいい笑顔だったので、先日直近の家族だけで済ませた葬儀での遺影に使ったとのこと。
詳しく聞くと、それは私がもう20年以上も前、仕事途中に抜け出し一緒に音楽を聴いた隣のサントリーホール前で撮ってあげたおばの写真でした。
「母は私たちの前ではまったく笑わない人でどちらかというとネガティブな想いや感情をぶつけてくる人でしたから。でも、明るい万佐子さんと一緒にあちこちに出かけるのが楽しく仕方なかったみたいで・・。よく話をしてくれたので、この写真もきっと万佐子さんが撮ってくださったのだろうなと娘たちと話していたんですよ」とおっしゃします。
そして「私たちと一緒に写真に写ってもめったに笑わない母でしたから、驚きました。こんなにいい笑顔で笑うんですね」と続きました。
もう立派にそれぞれの家庭を持つ、私も小さな頃から良く知る彼女のお嬢さん(おばの孫)3人としみじみその幸せそうな笑顔の写真を見入ったそうです。
なんという偶然でしょう。
ちょうど、おばが亡くなった翌日に、私はまったく関係ない別の写真を探して数千枚とあるスナップ写真の箱をひっくり返したばかりでした。
そして、ちょうど件のおばの写真を見つけ、母に見せながら「いいお顔しているね」と話したところだったのです。
とても驚きました。
同じ場所で二人一緒に写った写真も出てきて、そこには私の腰に後ろから手を添え肩に乗るように首を傾け微笑むおばの姿があります。
娘さんたちや他の方々の前ではともかく、おばは私の前ではいつも笑顔でした。
医院の正面玄関前に出ると道の向こう、真正面に見えた子供の頃から見慣れた東京タワーも7年前にできた外資系高級ホテルのおかげでその姿は見られなくなり、辺りのご近所はこの15年あまりの間にほとんどが再開発で郊外へ移るかヒルズと言われるビルの中に入ってしまいました。
ご近所の馴染みだったたくさんの小さな法律事務所や料理屋もいつのまにか姿を消し一面は駐車場となり、10年近く前に完成したマッカーサー通りの周辺はもはや昔の街並みの影はほとんどありません。
昭和初期の生まれで、昭和、平成と生き抜いたおばの死とともに、気づけば私の育った街もまるで違ったように変わってしまっていることに気づかされます。
金毘羅様を祀ってご近所を練り歩くお神輿が出た琴平町のお祭りなど、遠い昔のことのようです。
今日の知らせを聞いて、自分が生きた ”ある時代” が、街も家も、人も完全に「過去」のものになったことを思い知らされました。
住まう当主を失くした戦前からの一軒家も、一階に入るテナントさんとの契約が切れるあと数年で手放すことにするとのこと。
そこに残るのは、毎日を一喜一憂しながらきらきらと輝かせた人生のある時代の「思い出」だけとなるようです。
遺影に使われたという笑顔で写るおばの写真を見ながら今晩だけは思い切り泣こうと思います。
それは、世話になった最愛の人も、育った家や街も、その姿が完全に過去の思い出へと移行した大切な時間に対する区切り、最後のお別れとなることでしょう。
心よりの深い感謝を込めて・・・「ありがとうございました」。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
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