どれだけ年月が経っても、私たちを
本来はすべてが調和した、一つなのでしょうに・・。
相手を傷つければ自分自身も痛むことを誰もが幼少期から学んでい
今朝、目にした地元紙の社会面で昨年、集団感染が確認されたダイヤモンド・プリンセスに乗船していたある年配のご夫婦について書かれた記事が掲載されていました。
ご夫妻とそのご家族は、ありもしない風評被害に遭い苦しまれた1年を振り返っていらっしゃいます。
まだ20歳前の大学時代、私は東西冷戦明け直後のポーランドでアウ
今現在からはなかなか想像しにくいと思いますが、東西冷戦明け直後という時代は、まだ、ポーランドの一般市民に英語を話せる人々が少なく、世代によってはドイツへの敵意も強く残る時代でした。
私が現地で仲良くなった大学入学前に世界を一人旅して巡っているというオーストラリアからやってきた青年と一緒に街中を歩いていたときのこと。
ワルシャワ市内のある公園脇で立ち話をしていたおじさんの一人が私を手招きし呼び寄せます。そして、コソコソっと私の耳元で不慣れな片言英語を使い「君と一緒にいるのはドイツ人じゃないか。なぜ、アジアから来た君が人殺しのドイツ人なんかと一緒にいるんだ」と心無い言葉をささやいたりしたものです。
たしかに非常に端正な美しい顔をした青年でしたが、ドイツ人かどうかは顔でわかるものではありません。また、正直言って私には彼がどの国出身であれどうでもよいことです。もしかしたら、そのおじさんが過去に嫌な思いをさせられたドイツ人の顔に彼が似ていただけなのかもしれません。現に、そのルーツこそ知りませんがドイツからは遠いオーストラリアで生まれ育った若者でした。
2つの強制収容所を訪ねたあの日、私の心に最も強く刻まれたのは、アウシュヴィッツで目の当たりにした直視するのも残酷な展示物や映像ではありませんでした。ビルケナウの広大な荒れ地に残されたナチスが慌てて撤退する際に爆破した数々のガス室跡や収容者がやがて訪れる死に怯え寝泊まりした粗末なバラックやベッド、またそこに残され実存する落書きでもありません。
それらよりも、むしろ周辺のリンゴ畑や濃淡豊かな緑の草地、牧歌的な農家の集落、あるいは風に揺れるポプラ並木といったのどかな湿地帯に広がる田舎の風景が残酷なくらい強烈な印象を伴い私の胸に刻まれたのでした
そこに、穏やかな日常にこそ潜む「真の人間の狂気」を感じたからなのかもしれません。
戦争について書いたり学んだりしていると、ときに「どうしてまた、そこ(過去に起きたこと)にこだわるのですか?」という問いかけをいただくことがあります。
私はもう小学校にあがってすぐの時分から洋の東西を問わず、戦争に関するありとあらゆる関連書籍を読みあさること、また関連する映像を見ることをやってきているのでなんとも答えるに窮しますが、一つ言えることがあります。
それは、戦争が日常から切り離された特別なこと、また過去のできごとだとは思っていないということでしょうか。どんなときでも私たちの周りの調和やバランスが崩れれば再び起こり得るできごとだと考えているからです。
これまでの長い歴史に、私たち人類は多くの戦争を刻んできています。
それはある日、突然にものすごく悪いことが起ったというものではなくそれらのすべてが日常の延長として発生していることにぜひ気づいていただきたいです。
つまり、特別なこととして切り離してしまえるものではないということでしょうか。
私たちが日常生活の中で感じるあらゆる感情、その中に時に含まれる嫌悪、偏見、差別意識、憎しみ、嫉妬、度を超す怒りや優越感、敗北感・・といったあらゆる負の感情が大きくなりさまざまなタイミングと重なり集団化したときに対立や分断は生じるものと私は捉えています。
ですから、戦争について考えるとき過去であれ、現在であれ「私ならばその場にいてどうするか?」を常に自分に問うようにしています。
ほんの小さな心のなかのささくれが、あるとき何かのできごとに重なり関係のない場で突然に爆発する経験は、私たちの誰もが一度は経験したことのある感覚です。
それにさまざまな要因が重なり集団化されたときに何が起こるか。
他者に向けた刃は必ず自分自身に最後は向けられます。
私は何度もこちらのサイト内やブログはもちろん長いこと「人生は選択の連続」と言い続けています。これはもちろん誰より私自身に向けて発するようにしています。
選択とは、何か特別なことを決めるときや、岐路に立たされたときにだけすることではありません。
日々、目の前のできごとに対して自分がどういう感情の選択をするか、言動の選択をするか。
その積み重ねが、現在や未来の自分をつくり、またそこに繋がる人々との社会や世界を築いていくということ。
コロナ禍の昨今、世界中で多く見聞きするようになっている、発する人にそのつもりはなくともおもしろおかしく脚色された偽りの情報の流布、誹謗中傷、事実無根の風評、あるいは日々の生活で感染者やその家族に対し何気なく発せられる心ない差別的な言動。
すべては今、自分自身のために、目の前や周囲の大切な人のために、そしてそこに繋がるすべての人のためにどういった言動を選択していくのか。
私たち一人一人に突きつけられている瞬間瞬間の選択だと私は思っています。
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今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ
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