こうして冷たい北風が吹き荒れる秋から春先までの長い寒冷期になると思い出す童話があります。
冬の外出は、暖房着がずいぶん軽量化され、また暖かさの性能も抜群なのでちっとも嫌ではないという方も多い昨今です。都市部に限らず、気密性の高い住宅にお住いの方は真冬でも屋内で薄着のまま快適に過ごせるようで、むしろ冬らしい寒さにあえて触れたくてわざわざ屋外へ暖かいコートを羽織りお出かけになるなんて声も聞こえてくるほどです。
私が現在住まう安曇野では冷たい風が、雪をその身にまとった北アルプスの3000m級の山々から吹き下ろされてきます。そんな日にはコートの胸元をぎゅっと握り寒風に煽られてしまわぬよう歩きます。吹き入る凍えてしまいそうな隙間風から身を守るように体を縮めるものですから、常に体のどこかしらに力が入りっぱなしのような気がします。
イソップ童話の「北風と太陽」。
皆さんも一度は耳にされたり、子どもの頃には手に取って読まれた童話なのではないでしょうか。
北風と太陽が、地上で目についた一人の旅人のコートを脱がせることができるかどうか、それぞれの特質を使って力比べをするお話でした。
この話を思い出すとき、私は同時に長野に来たばかりの頃の自分の姿を重ねます。
もう既に心を病んで長いこと長野の家で療養していた母は医師から処方される薬によって低空飛行で安定しているような状態でした。朝から晩まで終日ぼーっと、息はしているけれども何をするでもなく日がな腰かけたまま。生きる力はもちろん、感情すらなくなってしまったかのように目に映る母の姿からは、もはやかつての母がどんなだったかすら思い出せないほどでした。
低め安定で良いという医師の判断に、「こんな状態で生活して、またこの先ずっと生きて本人が幸せなわけがない」。それが当時の私の憤り混じりの主張でした。
定期診察でそのときの具合によって処方薬を変えられたり、量を増減されたりする様子はまさに薬に生活や人生が振り回されているようでした。それがドンピシャリ効くわけでもなく、結局は様子見であるのですから実験対象と変わりません。薬の加減によって本人の体調、生活そのものも、またそれによって表れる様々な言動の変化に振り回される家族をはじめとする周りの人々の気持ちもないがしろにされているような気分でした。
何年も何年も繰り返し同じ状態が続きました。良かれと思ったことはそのほとんどが裏目に出て、症状は善くなったと思うと三歩後退どころかどん底まで落ちるなど・・。コントロールのいっさい利かないジェットコースターに乗っているような気分に襲われ、途方に暮れる毎日でした。
長い時間が経ったある日、ようやく私は母本人や彼女が患う心の病に向き合うというよりも「こんな状態では幸せであるはずがない」という自分の勝手な思い込みにより病気、そして母をなんとかしようとしていたことに気づかされます。
あるがままの母を受け入れるというよりは、改善の余地があるのに何もしないことが嫌で、結果的には力づくでも良い方向へいくように相手や状況を変えることばかりに力を注いでいたのです。
他者に対しては、「人は変えられない」がそれまでもずっと私自身に刻んでいたはずのスタンスでした。
けれどもこれが、ひとたび家族のような身近な存在に対してとなると、相手を変えようとしている自分の姿を目の当たりにしたわけです。正直、ショックでした。
改めて自分自身を正視して眺めてみると「それは自分もやられたら嫌だよね、やってはいけないよね」と感じることばかりを母にしていたわけですから。しかも、良かれと思っているから始末が悪いです。どこまで横柄な人間だったことでしょう。
北風がしゃかりきになって旅人に冷たい風を吹きつければ吹きつけるほど、旅人は胸元をぎゅっと握りしめますますコートを剝がされないようにしがみつく。
まさに「北風と太陽」のワンシーンです。
一方で、太陽がじりじりと照りつけた際にはどうだったでしょう。
太陽がどのくらいの熱で旅人を照らし続けたかは別として、旅人はコートを自ら脱いで持ち歩きます。
あるがままを受け入れるとは、それが身近な人であればあるほど難しいのも事実です。時間も、忍耐も、根気も必要とされるので時にあきらめ、投げ出したくなってしまうこともあるかもしれません。
けれども、おそらく人には目には見えていない、あるいは本人すら気づいていないけれど誰もが一人残らず持っているはずのある種 “底力” のようなものがあると私は信じています。
本人が「よし」と心からそう思えるタイミングで、自らエネルギーの再生へ向かう、自ら良い方向へ変わる、または自ら這い上がるための力をちゃんと私たち人間は本来この尊い生命のどこかに備えているのではないでしょうか。
あるがままを受け止め、太陽のようにただそこにあり、相手をただ信じて愛を持って見守る。
ふと、冬の冷たい風が吹き荒れる日には悪戦苦闘をしていたかつての私自身の姿がその様子に重なります。そして、ときおり雲間より顔を出す太陽のなんとも柔らかい陽射しに救いを覚え、その暖かさに身を委ねては凝り固まっていた体をほっと緩めるのです。
私の横には同じように冬の優しい陽射しに顔をほころばせ喜ぶ母がいます。見守られ続けたなか、自らの生きる力で再び立ち上がり与えられた毎日を大切に暮らす姿があります。
「あるがままを受け止め、相手を信じて・・」。
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