子どもの頃にテレビで観たアニメのせいでしょうか。この世にお別れをいう最期の瞬間には眩しいくらいキラキラ輝く選りすぐりの人生の一コマばかりが「走馬灯のようによみがえる」ものだと思っていました。
もしかしたら皆さんのなかには、世に言う "臨死体験” というものをなさった経験をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんね。
私が10数年前に見たものは果たしてそれに該当するのかどうかわかりませんが、少し綴ってみようと思います。
現在の上皇上皇后両陛下がまだ在位されていらした時分、戦後初めて慰霊目的でサイパンご訪問をされたことがありました。民放のテレビ局数社で共同取材を行うことになり、私は中継に関する事前準備の総括を任されていました。
ある日、早朝勤務で日常業務以外にこの任務の準備をしていたときのこと。なんとなく喉元に違和感を覚え、首を触ってみるとポコンと飛び出した異様な部位があります。なんとなく気になり、気づけば始終撫でるように触っていました。
たまたま、会社の近くまで訪ねてくる古い友人とお昼を約束していたので、本来なら昼で終わる早朝勤務ですが、続きを昼食後に戻ってやろうとして社外のレストランに向かいました。久しぶりの再会に話が沸き話続けるのですから、喉も乾きます。出されたお水をとろうと口に含んだものの呑み込む際に嫌な不快感があることに初めて気づきました。
せっかくの食事もどことなくうまく呑み込めない感覚があり、半分以上残し心配する友人を余所に別れました。再び社に戻ってからのわずか1時間ほどで私の首はみるみる腫れあがり、気づけば顔の横幅よりも太くなっています。朝方、触り続けた飛び出た部位が異様な熱を持っているので部署の冷蔵庫にたまたま入れっ放しにしたままだった熱冷まし用の「冷えピタ」を患部に数枚貼り付けしのいでいました。
いよいよ自分の唾液を呑み込めなくなってきてティッシュに人知れず呑み込めない唾を吐いては捨てるを繰り返す始末です。それでもサイパンご訪問の日が迫っていたので黙々と省庁はじめ関係各所と連絡を取り合ったりして準備作業をしていました。夕方になるとさすがに体全体がちんちんしてきて、さすがにまずいと思ったので広げた資料を明日にでも整理しようと雑にクリアファイルに突っ込み帰宅しました。
帰宅して測った体温は39度8分。どうりで、熱っぽいわけです。風邪をひいたのだと思い、以前診察でもらっていた抗生物質だけ飲んでやすみました。ところが、呼吸が苦しくてなかなか寝付けません。あざらしのように寝返りをうちつづけていた明け方3時ころ、さすがにもう限界だと思い、なぜか救急ではなく親しい友人に緊急電話をしました。時間も時間ですのに迷惑がらず、すぐさますっ飛んできてくれた友人に担がれるように近所にあった都立広尾病院(日赤医療センター)の救急外来を訪ねました。
金曜の夜だったこともあり当直はまだ若い医師ばかりで、専門医は脳外科以外もちろん一人もいませんでした。どう処置してよいのか困惑して、深夜というか早朝も早朝に上司を電話で叩き起こし診断を仰ぐために私の症状を説明しているのであろう若い女性医師。どうやら8時過ぎでないと専門的な処置はしてもらえない様子でした。彼女が息がしにくくて泣きながら横たわる私の手を、勤務の傍らなぜか一緒に泣きながら手を握り続けてくれていました。
日が昇る時分になってようやく、耳鼻咽喉科の専門医がいらして鼻からカメラを入れ事態が急変しました。あれよあれよと入院となり、しかも受入れ先は再び移動しての東大病院です。意識がほとんどなくなりかけた私の耳には専門医の「まだ未婚の若い女性なのでなんとか切開を避け処置をお願いします」と受け入れ先にしつこいくらい同じことを繰り返す声だけがこだましています。もうろうとするなか「先生、そんなに "未婚” を強調しなくたって・・」と思いながら転送されていきました。
転送先では意識が薄れているのに事務手続きのために2、3の質問に答えなくてはならず、もう既に虫の息だった私には最後のカウンターパンチのようなものでした。
気を失ってしばらくすると、何やら見覚えのある店とそこで談笑する店主のおばさん、そして私と弟が見えます。何を話しているのかわかりませんが、そこにいる皆が絶えず笑顔で他愛のない会話をしては声を出して笑っています。テーブルに並ぶ食事も、虎ノ門の家のすぐ近所にある馴染みの洋食屋さんだったので、そこでずっと私が食べ続けていたチキンカツカレー。そして弟と一緒に行くと必ずサービスで出してくれたポテトサラダとビールが何本・・といったなんでもないお料理ばかりが並んでいます。
その店のおばさんは私にとっては母親以上になんでも話せる方でした。悩みごとがあるとそこに行って話をし、カレーを食べては帰る。私の青春を支えてくれたおばさんです。
それにしても、長々とその店の、いたって平凡な談笑シーンばかりが続くのでちょっと飽きてしまって違うのを見たいと思い始めました。ところがしつこいくらいにその談笑シーンが脳裏に浮かびゆっくりゆっくりと映画のように流れ続けます。
頭のどこかで「これがいわゆる走馬灯のように記憶が駆け巡るということなんだなぁ」とぼんやり思いました。「あぁ、そうか。私はもしかしたらこのまま死んでしまうのか。案外あっけないものなんだな」とも。それにしても、こんなにゆっくり、今わざわざ思い出さなくてもいいような凡庸な記憶ばかりがどうして思い出されるのかしらと焦り、せっかくだからキラキラするよう一コマをいくつか思い出そうとしますがダメでした。相変わらず古い洋食屋のなんでもない様子ばかりが浮かんでは巡っています。
「え”~っ、こんなんじゃない~っ!!!」と叫ぼうとした瞬間、遠くから「小松さ~ん、小松さ~ん」と呼ぶ声がしました。パチッと目を開けると心配そうに私の顔をのぞき込む医師数名と看護師さんがいました。
どうやら私の生命力がやたらに強く無事に助かったのだそうですが、炎症数値が信じられないほど高く脳に酸素がいかない時間が長すぎたため転送されてきた私を処置した医師たちはもうダメだと思ったそうです。原因不明の急性喉頭蓋膜炎でした。それでも、あの広尾病院の医師が電話口で繰り返した「未婚なので気道切開だけはどうか避けて・・」という言葉が妙に気になりステロイドの大量投与を一度試しダメならすぐに気道切開、それでももう助からないのではないかと思ったそうです。
どうやら私はやはり一度三途の川をわたりかけたようでした。それにしても、そこで見たあのいたって平凡なまどろんだようなシーンはなんだったのでしょう。
だんだんに回復して意識がしっかりした私を待っていたのは「あのブタファイルを整理するのが本当に大変だったんだから!」と怒る上司の顔でした。とほほ、いきなりの現実です。
「ああ、そうだった。あとで整理しようと、とりあえず突っ込んで帰宅した関連資料で膨れあがったあのファイル・・。すっかり忘れていた。やってもたな・・」としどろもどろ、大事な局面で急きょピンチヒッターを引き受けてくださった上司にお礼を伝えました。口調はどうあれ、とても一人では飲み切れないほどの野菜やフルーツの缶ジュース詰め合わせセットを抱え、意識が回復したと連絡が入るなり駆け付けてくれた上司。怒りながらも涙ぐんでらっしゃる彼女に心の底から感謝しました。
予後の経過をみるための入院中、ステロイドの点滴袋を吊り下げゴロゴロ引っ張っては看護師の目を盗み病院内のタリーズへコーヒーを飲みに行っていた私はしばらくの間、ことあるごとにずっと考えていました。
私たちがこの世を去るときに脳裏や心に刻んでいくのは、実は子供から大人まで誰もが人生で一度や二度は経験しているであろう自分を誇らしく感じるような高揚感や幸福感に満たされた瞬間のキラキラとした自分の姿ではないのかもしれないな、とふと思いました。
ただ理由もなく身近にいる大切な人たちと他愛もない会話をし心からの安心を覚え素のままで笑っている。そんな極めて平凡に見えるようなことが実は魂にとっては最高にうれしいことだったりするのでしょうか。ささやかだけれどもそんな大切な感覚を味わいたくて私はこの世に生まれてきたかったのかもしれませんね。
何より、あの体験をした際に改めて、私という一人の人間がどれだけ大勢の人々に支えられ生きているのかということを実感しなおしました。わかっているつもりでしたが、まさに生かされていることを体感したという感じです。
あの場で多くの方々が力を尽くしてくださったおかげで生まれ持った身体をどこも損なうことなく、救われた命。
今でもその恩返しをするために「生きているだけでもう十分に及第点」をモットーに、周りに集う人々が一人でも多く笑顔になるよう、そのたくさんの笑顔と触れ合う時間を何より大切に暮らしていきたいと思っています。
投稿者プロフィール
-
今日もお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さまが柔らかな心で一日過ごせますように。
小松万佐子から皆様へのメッセージ
最新の記事
- きょうのつぶやき2024年11月21日おひさまの温もりと当たり前の日常
- 季節のたより2024年11月20日冬の訪れを感じる
- 大切なこと2024年11月19日一年の感謝を覚える時季と詩人と
- 小さなしあわせの種2024年11月18日繋がりから始まる
(長文です。申し訳ありません)
臨死体験のお話、大変興味深く読ませていただきました。私自身はありませんが母は臨死体験をしています。11年前に原因不明の高熱が続いて、入院していた地元の病院でのことです。そこの先生はどう治療したらよいかわからないようでした。もうだめかもしれないと思って母のベッドに潜り込んでいたら、母が急にとても幸せそうな表情になりました。そして「風がそよそよ吹いています。お花がきれいに咲いています」と何度も繰り返し、次に「れーこちゃん、れーこちゃん、何して遊ぶの?れーこちゃん、れーこちゃん、何して遊ぶの?」とこれ以上ない優しい言い方で囁いたのです。私は小さな子供に帰っているようでした。母の中で、走馬灯のように蘇ったのは、そんな光景だったんですね。あの時の慈愛に満ちた幸せそうな声を、はっきり覚えています。
実はしばらく忘れていましたが、このブログを拝読して思い出したのです。ありがとうございました?
そして、母はその後、救急車で東京まで運ばれ慶應病院に転院しました。ありとあらゆる検査をしましたが原因はわからないまま熱は落ち着き、退院しました。
れいこさん、いつもお読みいただき感謝申し上げます。
そしてとても素敵なエピソードをお聞かせいただきありがとうございました。
そうでいらっしゃいましたか。
お母様がそうした臨死体験をなされたのですね。
れいこさんがベッドに潜り込まれ、お母様に触れられたぬくもり、体温が
もしかしたら可愛い我が子を胸に抱いたお母様の遠い日の記憶を呼び起こし
恐らくお母様ご本人も意識していなかった、でもとびきり最高に幸せを感じてらした
日常のある瞬間を思い出されたのかもしれませんね。
お母様にとってはかけがえのない、まさに宝物のような時間でらしたのでしょう。
そして、愛しい「れいこちゃん」を探し声をかけているうちにふいっと
現実に戻ってらしてくださったのでしょうか。
お母様がお花畑かられいこさんの下へ戻ってきてくださったことにまずはありがとうございます。
そして、そのお母様を心から愛して毎日お世話をなさっていらっしゃるれいこさんの
優しさにありがとうございます。
冬の雨降る週末に、ほんわり心に明かりが灯るような温かくてやさしさに溢れるお話。
お話しくださり本当にどうもありがとうございました。??